うどん と 小麦
最近讃岐うどんがブームのようですが、東久留米も伝統的なうどんがあるのをご存知ですか。
今回はこの伝統のうどん、うどんの原料である小麦について取材しました。
ご存知のように東久留米に限らず、この武蔵野台地は田無と言う名のごとくお米があまり取れず、麦類が重要な作物だったのです。戦前までは冬の畑は麦の緑で覆われていたようです。それも大麦と小麦は7:3の割合で大麦が多かったとのことです。「麦の入ったご飯よりも、口当たりの良い小麦で作られたうどんの方がごちそうだった。」と地域の方は云っていました。
柳久保小麦
うどん
戦前までは東久留米だけではなく、
武蔵野で栽培されていた背の高い小麦
東久留米周辺に伝わるうどん打ちと食べ方
 
伝統の東久留米うどん
この伝統的な食べ物うどんを大切に伝えようとしている、前沢在住の三沢辰雄さんをご紹介しましょう。
三沢さんは東久留米の農家に生まれ、子供のころから母親が作ってくれたうどんで育たれた、とのことです。うどんは昔、最高のご馳走で、人寄せ(冠婚葬祭)のときは必ず地粉でうどんを打って出し、うどんが出れば宴も終わりになりました。昭和30年ごろからこのうどん打ちの技術がほとんどなくなってしまいました。三沢さんはこのうどん作りの技術がなくなっていく寂しさ、そしてうどんへの郷愁、この思いを何とか次の世代へ伝えようとうどん作りの講習会を開いたり国際交流の場でも講習をされました。又総合学習の一貫として、地域の小学校で子供たちと一緒にうどん打ちをなさっています。「石臼で粉を引くことから始め、一緒にうどんを作ってそれが出来上がったときの子供たちの感動が嬉しいのです。この伝統文化の作業工程をきちんと理解して、子供たちが大人になったとき、うどん打ちをしたということが頭に残っていてくれればと思います。」と語ってくださいました。一緒に作った子供たちからは、三沢さんに作ったときの感想文が寄せられ、その感想文には石臼で粉を引く面白さや、うどんを足で踏むのを体験したことの喜びが生き生きと書かれていました。ほとんどの子供が石臼を見るのがはじめてのようでした。
三沢さんと子供たち
(第三小学校にて)
また三沢さんはこんな話もして下さいました。
「昭和30年代ころまで東久留米の辺りでは、うどんを打てないとお嫁に行かれないと言われていた」とのことでした。
「そしてうどんはとても縁起のいい食べ物です。何故なら『つるつるかめかめ』だから。」お分りですか。「うどんはツルツルと口に入れ、地粉で作られたうどんは非常に腰があるのでよく噛め噛め。『鶴鶴、亀亀』 」ということだそうです。
 
東久留米流のうどんの食べ方
茹で上がったうどんを水で冷やし、糧(かて)につけて食べます。糧とはつけ汁のことで、この中にその季節の野菜が入っています。ちょうど素麺をつけ汁で食べると同じですが、つけ汁は野菜が入っています。例えばインゲンの取れる季節にはインゲンが入り、ハクサイが取れる季節には白菜が入るのです。このつけ汁は、素麺やザルそばのつけ汁と違い温かい汁なのです。(最近は夏冷たくした糧で食べているようです。)
この伝統的なうどんを食べさせるうどん屋も市内にできてきました。
 
糧はおわんに入って出されます。
このうどん作りは地粉でと言う事ですが今、東久留米では自家用以外には小麦は作っておらず、純粋な東久留米産の小麦はないのですが、三沢さんは「ゆくゆくは東久留米産の粉でうどん作りをやりたい」とのことです。この東久留米産の小麦が育ちつつあるのです。

柳久保小麦(やぎくぼこむぎ)

小麦の品種「柳久保」は寛永4年(1851)現在の東久留米市柳窪の奥住又右衛門が旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたといわれています。優良な小麦だったので評判になり「又右衛門種」、あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県でも栽培されました。この麦からは良質の粉ができ、うどん用として大変人気がありました。また、麦の草丈が長いので麦藁は農家の「わら屋根」にも利用された重要な品種でした。こうしてこの麦は長い間栽培が続けられていましたが、昭和17年でその姿は消えてしまいました。現在、柳久保の種は農林水産省生物資源研究所にて保管されています。

江戸・東京 農業名所めぐり(農文協)より抜粋

現在農林水産省生物資源研究所から東京農業試験所に種が来て、又右衛門のご子孫の方が、嘱託栽培で『柳久保小麦』を柳窪で育成されています。嘱託栽培のため種は絶対に他へ分けられないとのことです。
ご子孫のお話によりますと、『柳久保小麦』はうどん作りによい小麦と言われて栽培されたように言われていますが、うどん用にもちいたのは副産物で、麦藁の方が珍重されていました。何故なら『柳久保小麦』は普通の小麦より背が高いので(すだれのように長い)藁葺き屋根に好都合だったのです。麦わらを下に引きその上をカヤで葺いたのです。この屋根の事を、「ムイカラヤネ」といっていました。普通の麦の高さはおよそ75cm、柳久保小麦は115cmです。背が高くて倒れやすいので量産する事が困難で、昭和12年ごろより食糧増産政策が始まったため、ついに昭和17年以後作られなくなって姿を消してしまいました。
そして今また、今度は味の方で復活しようとしているのです。
又右衛門のご子孫の方が、「又右衛門が旅先から一粒の穂を持ち帰ったと色々な所で紹介されているが、そうではない。」と次のような話を聞かせてくださいました。
「麦の穂が実るころ、農家は忙しくて旅に出るというような事は考えられない。一説には伊勢参りの折にとあるようだが、農家が麦の穂が実るころに講を組んで伊勢参りに行くことは絶対に考えられない。又右衛門の時代は新河岸へ出来た作物をもって行き、そこで肥料や農機具と交換して帰ってきていた。その肥料の灰の中に異種の麦が入っていたのではなかろうか。又右衛門というひとは、篤農家で非常に好奇心が強かったので一粒の異種の麦を排除しなかった。」それが『柳久保小麦』なのです。ですから本当のルーツは分かっていないのです。
近い将来「柳久保小麦」が東久留米のブランド品として市場に出る事を待っております。

柳久保小麦(03年 5月 5日 撮影)        ラケット : 68cm
横に白く見えるのは背が高いため、倒れないように囲ってある紐

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